- ハンチバックは、69回芥川賞、第128回文學界新人賞受賞作 W受賞 作品
- 作者である市川沙央さん自身が障害を持つ。障害者目線から「健常者が持つ特権」を鋭く描く。行動の不自由、身体的苦痛、社会的疎外感に苦しむ障害者の日常など、健常者には描けないリアルが迫りくる
- 障害がテーマであるだけでなく、生・性・神・宗教・フェミニズムに対しても物申す作品。読者に多くを考えさせる
★★★★☆
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ハンチバック:あらすじ
私の身体は、生き抜いた時間の証として破壊されていく
本を読むたび背骨は曲がり肺を潰し喉に孔を穿ち歩いては頭をぶつけ、私の身体は生きるために壊れてきた。圧倒的迫力&ユーモアで選考会に衝撃を与えた、第128回文學界新人賞受賞作。
打たれ、刻まれ、いつまでも自分の中から消えない言葉たちでした。この小説が本になって存在する世界に行きたい、と強く望みました。――村田沙耶香
小説に込められた強大な熱量にねじ伏せられたかのようで、読後しばらく生きた心地がしなかった。――金原ひとみ
文字に刻まれた肉体を通して、書くという行為への怨嗟と快楽、その特権性と欺瞞が鮮明に浮かび上がる。
――青山七恵井沢釈華の背骨は、右肺を押し潰すかたちで極度に湾曲している。
Amazon解説より
両親が遺したグループホームの十畳の自室から釈華は、あらゆる言葉を送りだす――。
ハンチバックとは「せむし」のこと。背中が曲がったこと人のことです。
ハンチバックは、障害者目線から「健常者が持つ特権」を鋭く描く作品です。行動の不自由、身体的苦痛、社会的疎外感に苦しむ障害者の日常が、徹底的に描かれています。
主人公は、親が遺してくれたグループホームに暮らす、40代の重度の障害者 井沢釈華。しかし、釈華の背骨は極度に湾曲し、自分の足で歩くことはおろか、入浴をはじめ、日常生活の多くのことが一人ではできません。
釈華は、親が他界し、身寄りはないものの、親が残した資産でお金には不自由していません。しかし、社会的な疎外感を紛らわすため、金になるエロ・18禁ティーンズラブ小説を書き、その稼ぎを暮らしに恵まれなかった人に全額寄付する生活を続けています。
また、それでも埋まらない心を満たすために、誰も知らない・読まないTwitterアカウントで、人には言えない「自分の思い」をぶちまけていました。
妊娠し、中絶したい。
釈華は、自分の思いを実現するため、グループホームに介護士として勤める男性 田中に、1.5億円と引き換えに精子提供を依頼するのです。
ハンチバック:感想&考察 ※ネタバレ注意
ハンチバックには非常にインパクトのある表現が度々登場します。ここからは、作品内の表現を引用しながら、私の感想をまとめます。
「ハンチバック」というタイトル
私は せむし の怪物だから。
まず最初にインパクトがあるのが、タイトル「ハンチバック」です。私は、本書を読むまで、「ハンチバック」という言葉そのものを知りませんでした。しかし、その意味が、差別用語である「せむし」を表す表現であることを知り、大胆なタイトルであることに驚きます。
作品の中には、「私はせむしの怪物」という表現が何度も出てきます。また、背中の歪みと同様、性格もねじくれていると自分を評するのです。
肉体的痛みは、精神を疲弊させ、幸福感を奪います。さらに、着替えも、トイレも、入浴も、他者の力を借りずにできない、つまり、自分の恥部をさらして生活しなければならないことは、まっすぐで健全な自尊心をも奪います。
この「ねじくれ」は本書を貫く大事なテーマです。
歪んだ「生」と「性」
本作には、障害者が生きていくことの大変さが、非常にインパクトのある表現で描写されており、読者は、その言葉にねじ伏せられます。市川沙央さんの生きる苦悩が、小説を通じて、ストレートに伝わってくるのです。
モナ・リザを汚したくなる理由はある。(略)完成された姿でそこにずっとある古いものが嫌いだ。壊れずに残って古びていくことに価値のあるものたちが嫌いなのだ。
生きれば生きるほど私の身体はいびつに壊れていく。死に向かって壊れるのではない。生きるために壊れる、生き抜いた時間の証として破壊されていく。そこが健常者のかかる重い死病とは決定的に違うし、多少の時間差があるだけで皆で一様に同じ壊れ方をしていく健常者の老化とも違う。
本を読むたび背骨は曲がり肺を潰し喉に孔を穿ち歩いては頭をぶつけ、私の身体は生きるために壊れてきた。
さらに、障害は「生」を奪うだけでなく、女性としての「性」の喜びをも奪います。そして、釈華は、次のように願うのです。
私の心も、肌も、粘膜も、他者との摩擦を経験していない。(略)生まれ変わったら高級娼婦になりたい。金で摩擦が遠ざかった女から、摩擦で金を稼ぐ女になりたい。
普通の人間の女のように子どもを宿して中絶するのが私の夢。
本作でも軽く触れられていますが、つい30年前、1996年「優生保護法」という差別法律が存在していました。簡単に言えば、障害のある子どもを「不良な子孫」と規定し、社会全体のためには、そうした子どもが産まれてこない方が良いという考え方(優生思想)に基づいた法律が存在していたのです。
障害者、そして、障害者親族の人権がないがしろにされています。現代なら考えられない由々しき問題です。
元明石市長の泉房穂さんは、著書『社会の変え方』で、障害を抱えた弟の誕生・成長を通じて、社会の残酷さを味わったと言います。そして、社会からの罪のない弟への仕打ちに、子供ながらに「何かが間違っている」強く思ったと語っています。そして、その悔しさが、「政治を変えたい」という思いにつながり、明石市の「子供を核とした街づくり」につながったと述べています。
現代は「優生保護法」のような差別的な法律は廃止されていますが、一方で、妊娠段階での奇形の発見率が高くなり、奇形児の中絶が容易になっています。このような背景を鑑み、釈華は、「殺すために孕もうとする障害者がいてもいいんじゃない? それでやっとバランスが取れない?」と考えるのです。
お金で「生」と「性」を買う
釈華は、自分の思いを実現するため、グループホームに介護士として勤める男性 田中に、1.5億円と引き換えに精子提供を依頼します。この依頼シーンから、実際の性交渉まで、なかなかすざましい表現が多数でてきます。
さらに、お金のない健常者が、お金落ちの障害者をさげすむ表現、男性が女性をさげすむ表現にもドキリとさせられます。
是非、このやり取りは、本を手に取って、読んでみてほしい。以下、一部だけ、私の心にとどまった表現を書き記しておきます。
田中さんは金のためと割り切って重度障害女性の入浴介助に入り、見たくもない奇形の身体を洗っている時も、金の塊を磨いているつもりだったのだろう。親の遺産で生きている私という人間が不労所得の金の塊にでも見えているのだろう。
「健常者の精子じゃないと嫌なんですか?」なかなか痛いところを突かれた。ただの嫌味のわりに、障害女性のコンプレックスの本質に接続してくる問いだ。
一匹、いくらくらいしたんだろう。 ……メダカじゃあるまいし。
涅槃の釈華
本作の中には、宗教に関わる言葉・フレーズが多数登場します。
わかりやすいのは、主人公の名前「釈華」、偽名Twitteアカウント「紗花」。どちらも、仏教の「釈迦」に通じます。
「涅槃の釈華」という表現も印象的です。
「涅槃」という言葉を調べると、以下のように記載されています。
- あらゆる煩悩ぼんのうが消滅し,苦しみを離れた安らぎの境地。究極の理想の境地。悟りの世界。泥洹ないおん。ニルバーナ。寂滅。
- 死ぬこと。また,死。入滅。一般に釈迦の死をいう。
主人公の釈華は、生きるために壊れ、痛みに悶える生活をしていることを考えると、前者の意味とは思えません。「死人のような釈華」という意味で、使われているのでしょう。
また、本作には、キリスト教の聖書のフレーズも複数登場します。伝統的なキリスト教では「中絶」はNGです。米国では「中絶の是非」が、国や州の選挙に大きく影響する重要テーマです。殺すために孕もうとする障害者である釈華は、神に逆らうとても罪深き人物であるということを、示唆しているのでしょう。
物議を醸す最終章。どう読むか
本作の最終章は、性風俗で働く大学生・紗花が、気持ち悪くいけ好かない客と性交渉するシーンで幕を閉じます。
突然飛び出した唐突なストーリーでエンディングを迎え、読了後、キョトンとしてしまいました。
これはどういうこと??と思い、最終章を再読すると、こういうことではなかろうかという、最終章の意味が見えてきます。
紗花は、壮絶な人生を背負った大学生です。グループホームに勤めていた兄が病気の女性を殺害。母はおかしくなり、家庭崩壊。紗花は学費を稼ぐために性風俗でバイトをしてことを、風俗の客相手との会話で明かしています。
つまり、これは、「釈華の涅槃=不幸な死」を意味するのではないかと,,,
人それぞれ、読み方があるかもしれません。是非、あなたの感想をお聞かせください。
最後に
今回は、市川沙央さんの『ハンチバック』のあらすじ・感想を紹介しました。
正直、本作は、賛否両論ある本で、好き嫌いも分かれると思います。しかし、頭を混乱させたり、違和感を感じさせる本が嫌いではありません。むしろ、好きです。著者 市川沙央さんが魂を削って書いた表現はインパクトがあり、また、多くを考えさせます。
この感覚は、本書を実際に読んだ人にしかわかりません。短編なので、読了に時間もかかりません。是非、本書を手に取って味わってみてください。