- 『御堂関白記』は藤原道長のビジネス日記。国宝にして、ユネスコ記憶遺産
- 角川ソフィア文庫の、ビギナーズ・クラシックスシリーズは、重要なイベントを取り上げて解説。時代背景と共に解説されるので、学びが多い
- 同シリーズには、『光る君へ』の登場人物たちが残した文学・日記が多数取り揃っている。合わせ読みで、平安時代が深く学べる
★★★★☆
Kindle Unlimited読み放題対象本
『御堂関白記』ってどんな本?
御堂関白記(みどうかんぱくき)は、藤原道長が書いた日記です。原本は国宝。京都の陽明文庫が所蔵しており、ユネスコ記憶遺産にも登録されています。
日記は、長徳四年(998年)7月5日、左大臣・藤原道長33歳の時から始まっています。政務を仕切るものとして、父として、そして晩年は一人の老人としての道長の姿を垣間見ることができます。
タイトルの「御堂」は、晩年の道長が法成寺無量寿院を建立して「御堂殿」「御堂関白殿」と呼ばれたことによる後世の呼称です。存命中に道長が『御堂関白様』と呼ばれていたわけではありません。
藤原実資の『小右記』にも同じことが言えますが、このころの男性の日記は、カレンダーを発展させたもの。現代で言えば、ビジネス手帳に記載するイベントメモのようなものです。「〇月〇日、△△の会議があり、××が□□と意見した」「◇月◇日、宮中の宴が催された」といったことが、記載されています。
平安時代の女性の日記『紫式部日記』『蜻蛉日記』『和泉式部日記』などのように、自分の気持ちを赤裸々につづったようなものではありません。しかし、男性陣の日記からは、政治や宮中行事、さらには、権力・勢力争いなどを知る歴史の貴重な手掛かりとなっています。
『御堂関白記』自体は、ビジネス手帳メモなので、ただ読んでも面白くはありません。しかし、角川ソフィア文庫版『御堂関白記 藤原道長の日記 ビギナーズ・クラシックス』は、日記の解説が面白しくて、ためになる!
有名な『望月の歌』からは、藤原道長は傲慢で贅を尽した暮らしをしていた人物のイメージがありますが、『御堂関白記』からは、いろいろと人間関係やしがらみに苦しみ、気苦労が絶えず、しかも、忙しい生活をしていたことが伺えます。
また、人生の後半は病気がちになり、仏にすがる老人・道長を垣間見ることができます。
ちなみに、9月15日、NHKで放送の『光る君へ 第35話「中宮の涙」』では、藤原道長(柄本佑)は、中宮・彰子(見上愛)の懐妊祈願のため、息子の頼通(渡邊圭祐)と共に御嶽詣へ向います。その険しい行程と悪天候に見舞われたことも、日記に記録されています。結構、強行で大変な旅だったようです。
この旅の解説に当たっては、藤原伊周・藤原隆家が、 金峰山 参詣 に出た藤原道長の暗殺をたくらんでいるという噂が流れ、貴族社会がパニックになっていたことも紹介されています。
その他、大河ドラマでは、時々、道長が日記を書いているシーンも登場します。今年、国宝『御堂関白記』に触れてみてはいかがでしょうか。
- 時の権力者の生き方・思考・暮らしぶりなど「人となり」に興味がある方
- 平安時代に興味のある方
- NHK大河ドラマ『光る君へ』の視聴者
以下では、本作から面白いピックをいくつか紹介します。
実は「関白」になったことがない道長
『御堂関白記』という日記が残るくらいなので、藤原道長は「関白」の任に就いたことがあると誰もが思うでしょう。
しかし、実のところ、道長は正式に関白となったことはありません。それにもかかわらず、 後代 の人々が道長に「御堂関白」の号を奉ったのは、道長が 一条天皇(66代)・三条天皇(67代)・後一条天皇(68代)の三代に渡る朝廷において、絶大な権力を有していたからに他なりません。
さてここで、「関白」と「摂政」の違いは押さえておきたい。摂関政治において、最終的な決裁者はあくまでも「天皇」ですが、天皇とて藤原家を前に、ままならなかったのがこの時代の政治です。
関白 | 成人の天皇を補佐 |
---|---|
摂政 | 天皇 が幼少または病弱などのために大権を全面的に代行する |
藤原氏を外戚としない(藤原氏の女を生母としない)天皇が登場するのは、第71代・後三条天皇まで時計を進めなければなりませんでした。幼年ではない天皇の即位も久しぶりながら、藤原氏を外戚としない天皇誕生も170年ぶりのことでした。
ただ、この後三条天皇以降、藤原家から天皇家に権力を奪い返す争いがなんとも醜い!この後、白河天皇の院政などが出てくるのですが、女性問題も絡んでかなりな黒歴史!その醜さは、『逆説の日本史4』で面白く解説されています。私は、あまりに面白すぎて、一気読みしました。
「望月の歌」。いつ詠まれた?どんなタイミングで?
この世をば/わが世とぞ思ふ/ 望月の/ 欠けたることも/なしと思へば
上記は、超有名な道長が詠んだ「望月の歌」。「どこにも欠けたところのない満月のように、この世は全ておれのものだ!」なんて、いや~、なんともスゴイ歌ですね。
この歌が詠まれたのは、寛仁二年(1018年)十月十六日。太皇太后・皇太后・中宮 の三つの 后 の地位が道長の三人の娘たち──藤原彰子・藤原姸子・藤原威子 ──によって 占められることが確定した日です。道長の三女・威子(いし)が、年下の後一条天皇の皇后になったことを祝う宴の後の二次会で詠まれました。祝宴には道長と子の摂政・藤原頼通をはじめ、左大臣、右大臣など貴族たちがそろって参加し、二次会も座る隙間がないほどのにぎわい。あちこちで杯が回され、道長自ら酒を注ぎまわったそうです。
ただ、この歌の記録は『御堂関白記』にはありません。この歌の記録が残っているのは、道長に真っ向から反発した唯一の男・藤原実資の日記『小右記』。
以下のように記録に以下のように残っています。
此世乎ハ我世トソ思望月乃虧タル事モ無ト思ヘハ」
この当時の男性の日記のスタイルは漢文。藤原実資 『小右記』も漢文です。しかし、この歌には、滅多に見られない仮名文字が使われています。漢文ではうまく伝わらない「道長の奢った気持ち」を、皮肉も込めて残しておきたかったのでしょうね。
この宴席での道長と実資のやり取りが、永井路子さんの歴史小説『望みしは何ぞ』の中で描かれていてとても面白い。主人公は藤原能信(よしのぶ)。道長の子でありながら、2番目の奥さん明子(高松系)の子であったが故に、母を倫子(鷹司系)とする異母兄弟・頼道(よりみち)らに比べて不遇な境遇の中で育った人物です。
彼にしてみては、父にも恨みがあれば、兄弟の頼道も、鼻をあかしてやりたい相手です。後に摂関政治を終わらせる男・能信は「父は、なんとあきれた歌を詠んでいるのだ」と心の中で酷評しています。(笑)
なお、さすがの道長にも、この歌を詠むことには 幾らかは気の引けることであったらしく、喜びを素直に爆発させてはいなかったようです。
娘・彰子の入内・出産
娘・彰子の入内や出産に関しても『御堂関白記』には記録が多数残っています。
彰子入内時に、自身の権勢を天皇にも見せ付ける「四尺屛風」を用意した記録も残っています。なお、歌のうまい公卿たちに和歌の供出を命じたのは、『御堂関白記』によれば、彰子の入内の直前になってからのこと。思いつきだったのか?いずれにせよ、娘の嫁入り道具を使って自己の栄華を(特に、一条天皇に対して)喧伝したわけです。
道長にごますり勢がいる一方、反対勢も多く、朝廷の意思決定を実質的に担う重要な会議に、関係者が一人も主席しなかったという記録も複数日記に残っています。権力者であっても、人間関係に手を焼いていたことがうかがい知れます。
娘・彰子の一条天皇の子の出産についても日記に記録が残っています。ただ、男性だからでしょうか?喜びを爆発させるような記載はなく、記述は淡白。紫式部の『紫式部日記』に残る彰子の出産の様子の方が圧倒的に詳しく、そして、面白いです。
日記には、誤字脱字、多数!
日記に、人間「藤原道長」を見るのは、日記内に残る「誤字脱字」です。「文法を無視した悪文」もあります。
当時の道長には、人前に出して恥ずかしくないレベルの漢詩や漢文を自分一人で作る力など、なかったと考えられます。文学好きの一条天皇と娘・彰子の仲を取り持とうと、最初は歌を詠む努力もしていますが、一条天皇を没すると、そんな努力をやめてしまいます。
そういう意味でも、宮中の貴族らが皆が夢中になって読む『源氏物語』を執筆する紫式部は、道長にとってとても貴重な存在だったのでしょうね。
最後に
今回は、『御堂関白記 藤原道長の日記 ビギナーズ・クラシックス』からの学びを紹介しました。
この本に掲載の日記や年表などと共に、大河ドラマを見ると、ドラマの内容が深く理解できるだけでなく、「今後、こうなっていくんだろうな~」と予測しながらドラマを楽しめて面白いです。
表紙はつまらなそうな感じ満載ですが、読んでみると、わかりやすくて面白い。何より、平安時代がよくわかります。読む価値、大いにありです。
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