- 11歳の時、突然性犯罪者の息子になってしまった貫多。劣等感とやり場のない怒りを溜め、肉体労働でその日暮らしの生活をする19歳の主人公を描く、第144回 芥川賞受賞作
- 著者・西村賢太氏自身が、中卒・性犯罪者の息子というレッテルを貼られ、日雇い・その日暮らしを経験した過去を持つ
- 身を削って書かれた私小説。それゆえ、貫多の自堕落な自業自得なクズの人生が、ひりつくほど生々しい
★★★★☆
『苦役列車』ってどんな本?:あらすじ ※ネタバレ含む
父は性犯罪者。人生に張り付けられたレッテル
主人公・北町貫多。彼が11歳のとき、彼の父親は性犯罪を犯す。11歳にして性犯罪者の息子のレッテルを貼られ、普通の人が普通に持っている「まっとうに社会受け入れられる可能性」を失ってしまう。それからの彼は、
15歳から親元を離れ一人暮らし、
日給5,500円の日雇い仕事、
日給はすべて食と酒と風俗に消え、家賃も払えずに居所を転々とする、自堕落な日々…
18歳の夏のある日、貫多は日雇いの現場に向かうバスの車中で日下部正二という同い年の好青年に出会う。貫多から見れば日下部は「まっとうな社会の人間」。日下部は十分すぎるほどの「優等生」だ。しかも、「爽やかさ」まで持ち合わせているのだ。
貫多が感じた劣等感
性犯罪者の息子のレッテル。これは、寛太にとって、大きな障害であり、コンプレックスであり、「劣等感」を感じて生きてきた。大きな劣等感を持つ人は、往々にして、人間関係は狭まる。
友ナシ、金ナシ、女ナシ。
しかし、爽やか高青年の日下部は、するりと人々の懐に入り込んでいく。そんな日下部に興味を抱いた貫多は、度々、日下部を酒・風俗に誘い、交友を深めようとする。しかし、最初は二人の距離は縮まったかに見えたが、次第に、日下部は貫多の下劣な趣味に辟易し、距離を取るようになる。
どうしても埋められない「格差」を実感し、「自分のみじめな境遇」を再認識する貫多。
数年後、貫多は日下部が郵便局になったことを知る。「大したことがないじゃないか」と思うも、しかし、当の貫多はいまだ、日雇い人足。ヤツだって大したことないと思わない限り、やっていられないのだー。
『苦役列車』:感想・考察
私小説の生々しさ
私は。私小説作家の「西村賢太作品」は本作がはじめて。本作『苦役列車』も西村氏の実体験がベースに描かれた、私小説。西村賢太氏自身が、父親が強盗強姦事件を起こして逮捕されたことで、中卒・性犯罪者の息子というレッテルを貼られ、結果、両親は離婚し、母子家庭で育っています。
まさに、身を削って書かれた作品。それゆえ、生々しい。
人生に理想を追い求めたくてもそれは叶わない。レッテルがそれを邪魔をする。人生の落伍者として生きるしかない自分が自己崩壊しないために、自分と折り合いをつけた結果として、自虐的に自業自得で落ちぶれる人生を選ぶ。そんな、ままならない「人生落伍者」のリアルが伝わってきます。
私小説であるが故の魅力
芥川賞の選考基準の一つが「純文学」。受賞作には、自分の経験がもとになっている私小説も多い。
純文学は、その作品の背景に、「私とは?」「人間とは?」「社会とは?」と言ったような哲学的な問いを持つものが多数存在します。
また、私小説とは、作者自身を主人公とし,その直接的な生活体験や心境に取材した小説であり、暴露的で衝撃的な内容を含む作品が多数存在します。
私小説✕純文学。これらが掛け合わさった作品は、人の痛いところ、弱いところ、歪んだところ、普段から嫌悪感を感じていることなどを鋭く突いてくるものが多く、読みっぱなしにできません。本書も、そんな「芥川賞受賞作品らしさ」を感じる作品でした。
最近の芥川賞受賞作では、「健常者特権」「障害者の生・性」を鋭く描いた『ハンチバック』も同じような匂いを感じる私小説。小説から、障害者の苦悩が生々しく押し寄せてきます。
著者が『苦役列車』のタイトルに込めた意味
著者が、『苦役列車』のタイトルに込めた意味と思われること。それが、作品内で以下のように表現されています。
かかえているだけで厄介極まりない、自身の並外れた劣等感より生じ来たるところの、浅ましい妬みやそねみに絶えず自我を侵蝕されながら、この先の道行きを終点まで走ってゆくことを思えば、貫多はこの世がひどく味気なくって息苦しい、一個の苦役の従事にも等しく感じられてならなかった。
貫多は自らの惨めな境遇、そして、そこから抜け出せずに社会の落伍者であり続ける自らの人生を、「苦役を乗せた列車」に例えます。
自らが、厄介な自意識という[苦役]を搭載して走り続けなければならない『苦役列車』だとー
苦役の意味は、❶つらく苦しい労働、❷懲罰 のことです。まさに、若き日の主人公・貫多の日雇い肉体労働の日々は、社会から与えられた懲罰のようです。
しかし、列車には「終点」があり「乗換駅」があります。
西村氏は、「作家」という列車に乗り換え、その才能を「芥川賞受賞」で開花させます。文庫本『苦役列車』では、『落ちぶれて袖に涙のふりかかる』という作品を同時収録することで、40歳になった貫多が川端康成賞の選考結果を待つ姿が描かれます。貫多も西村氏同様、列車乗り換えに挑むのです。
作家で食っていくことも苦役の連続だと思います。しかし、西村氏は、「人生は乗り換え可能である」ことを、暗に示しているように私には感じられました。
『苦役列車』:正直感想と気づきー自虐的に、自業自得で落ちぶれる生き方
本書を読み終えて、「人生の落伍者の張り裂けそうな心の苦しみ」が描かれていないことに、ちょっと残念感を覚えました(裏返せば、私は、作品にそれを期待していたということです)。本書で著者が「最終的に言いたかったこと」がよくわからなかったのです。
でも、本書は「芥川賞受賞」の実力作。映画化もされました。う~ん。何だろ、このモヤモヤは…
しかし、本作の映画のサブタイトルを見て納得しました。
友ナシ、金ナシ、女ナシ。この愛すべきろくでナシ
そう。本作は、徹底的に「ろくでナシの生態」を描いた作品。「自業自得で落ちぶれるクズ」を描いた作品であり、徹底的に「愛すべきクズ」を楽しめばよかったのですね。そういえば、本作で主人公・貫多は「かわいそうな境遇の人」としては一切描かれていませんでした。
本作のプロモーション映像の「最後のテロップ」がよかった。
それでも明日はやってくる
たとえ、今、『苦役列車』に乗っていたとしても、明日はやってきて、少しずつ人生は変わっていく。私にはそういうメッセージに見えました。
そして、DVDパッケージには、以下のメッセージも。
俺には、「何も無い」がある
自分には何もないことに卑下している方は、大人の絵本『ぼくにはなにもない』も読んでみてください。「何もないこと」にあるすばらしさがわかって、心が救われますから!
最後に
今回は、西村賢太さんの小説『苦役列車』のあらすじと感想・考察を紹介しました。
本記事で紹介した、以下の本も合わせて読んでみてください。何かしらの気づきが得られると思いますから。