- 突然、家から母がいなくなり、ゴミ屋敷で壮絶な飢え・孤独に耐えて生きざるを得なかった盲目の少女とわ。そんなとわが、闇を乗り越え、人と犬に支えられながら、前向きに人生を切り開いていく感動小説
- どんな闇の中にも光はある。生きているって、すごいことなんだね と教えられる1冊
- 少女とわがおかれた環境はあまりに酷。しかし、著者は、悲惨さよりもやさしさ温かさを描く
★★★★☆
『とわの庭』ってどんな本? あらすじ
「とわの庭」。本のタイトル・表紙の装丁から、女の子・とわちゃんと犬の温かくいつながりを描くやさしい物語をイメージして読み始めたのですが…
読み進めると、最初のイメージがどんどん崩れていきます。とわの置かれた環境があまりに過酷なことが判明していくのです。
「とわ」は盲目で目が見えません。大好きなお母さんと二人暮らし。母以外のとわの世界は、毎日朝を教えてくれる庭にやってくる鳥の歌声と、水曜日に荷物を届けてくれるオットさんのみ。それでも、とわは、母に文字を教えてもらったり、本を読み聞かせてもらったりして、愛情ある暮らしをしていました。しかし、生活のために母が働きに出かけ始めたころから、何かが崩れ始めます。
とわが一人お留守番をしている間は、「おむつ」と「ネムリヒメグスリ」と呼ぶ薬で眠らされます。そして、次第に足元にゴミが増えていって… とわ10歳の誕生日、はじめてのお出かけで写真館でふたりの記念写真を撮影した後、お母さんは、突然、姿を消しまいます。
目も見えず、1人残されたとわ。家はゴミ屋敷となり、オットさんも荷物を届けてくれなくなり、食べるものもない。とわに「季節」を教えてくれるのは、かつて母が庭に植えてくれた庭の木々とお花の香りだけ。しかし、その香りさえ、ゴミの異臭に包まれわからなくなってしまいました。
曜日がわからなくなったら、だんだん、季節までわからなくなってきた。ついに、目だけでなく鼻もきかなくなってしまったのだろうか。けれど、そんなはずはない。だって、この家にただよう不快な臭いは、着実にわたしの鼻に届いている。
目の見えないとわは、ゴミ屋敷でお母さんを待ち続けます。どれだけお母さんを待ち続けたのでしょうか。とわは自分の年齢さえわかりません。
空腹で、その場に倒れこむ。もう動けない。悲しいけれど、ここはゴミ屋敷なのだ。わたし自身も、そのゴミの一部なのだ。そう思うと、生きながらにして、体の端から腐っていくように感じた。腐敗は少しずつ広がって、いつかわたしのすべてを覆い尽くしてしまう。それでもわたしは、母さんに捨てられたとは認めたくなかった。わたしはまだ、母さんが帰ってくることを信じていた。だって、わたしの母さんだから。わたしと母さんは、〈とわのあい〉で結ばれているのだから。
壮絶な孤独・飢え・闇に耐え続けたとわ。しかし、生き続けるために、「母への思いを封印」することを決断し、ゴミ屋敷を出ることを決意します。そして、ひどい姿でご近所の女性に発見されるのです。
とわは、児童養護施設での保護の元、新たな人生を歩み始めます。清潔な生活、おいしいご飯、たくさんの本、大切な友人、一夏の恋。そして、盲導犬ジョイと切り拓いた新たな生活は、眩い光とかけがえのない愛に満ちていました。
人々との交流の中で、多くを知り、感謝をし、いっぽ、にほ、さんぽと、足取りはゆっくりでも成長していくー
とわに、どんな人生にも光があることを教えられる感動の長編小説です。
わたしには、まだまだやりたいことがたくさんある。 人生の新しい扉は、開かれたばかりだ。
『とわの庭』感想
母を恨むことなく、運命を受け入れ、前を向いて生きる「とわの姿」
二十歳で保護されるまでのとわの人生は壮絶です。普通なら、自分を置いて出ていった母を恨み続けるでしょう。しかし、とわは、母を恨みません。
また、盲目ゆえに、まともな教育も受けず、20年近くも家に閉じこもっていたせいで、土踏まずも発達せず歩くこともままなりませんでした。しかし、自分を卑下することもありません。
その姿は、すべてを自分の運命として受け入れているように見えます。
いったい、この強さはどこからくるのでしょう? 私は考えます↓
他人と比較せず、自分の「感覚」を大事に生きる強さ
私たちの不幸の源泉は、多くの場合「人と比較してしまうこと」にあります。「妬み」は自分が持たないものを相手が持っているから感じる感情で、それがエスカレートすると「恨み」になります。また、「腹を立てる」のも自分が不当に扱われていると感じるからです。
しかし、とはには、「妬み」「恨み」といった感情はありません。すべてを受け入れる。これには、とわは盲目と言う点が大きく関係していると思います。なぜなら、目が見えないことで、「人と自分を比較」することがないのですから。かわりに、自分が感じる「感覚」を大事に生きています。
私たちは「目が見える」が故に、「自ら不幸な感情」を呼び寄せがちです。とわのように、他人との比較でなく、「自分の感覚」を大切に生きるべきであると、とわから教えられたように思います。
闇に生きていても「光」「温かさ」はある
とわが経験したネグレクト。空腹に耐えかねる姿は壮絶です。しかし、作家・小川糸さんは淡々ととわの姿を描き出します。
生活困窮者を描いた中山七里さんの小説『護られなかった者たちへ』でも、食べるものがなく食べ物でないものを口にする生活困窮者が描かれています。その悲惨さは、涙なしには読めません。私は嗚咽が出るほど号泣しました。この小説で描かれるのは、食うものにも困る生活困窮者を取り巻く「怒り」「悲しみ」「憎しみ」であり、それが、犯罪を生み出すことを徹底的に描いています。
一方、小川糸さんは、『とわの庭』の中で「怒り」「悲しみ」「憎しみ」を一切描きません。それは、どんな状況の中にも、「光がある」ことを描きたかったからだと考えます。
とはは盲目です。まさに「暗闇」に生きています。しかし、暗闇に生きていても、「あたたかな光がどこかにある」。そして、その光が人生を変えるきっかけとなり、美しさ・やさしさを連れてくる。そんなことを、読者に感じてもらいたかったのだと思います。
確かにわたしは目が見えないけれど、世界が美しいと感じることはできる。この世界には、まだまだ美しいものがたくさん息を潜めている。
『とわの庭』素敵な言葉
本作は、素敵な言葉がいろいろ登場します。その中で、私がぐっと来たのが、「本好きなとわ」の本に対する思いです。
録音図書を聞く時は、元になっている本も一緒に前に置く。表紙を手でなぞり、なんとなくこの辺かな、というのを想像しながらページをめくり、紙の匂いそのものを嗅ぐ。そうすると、物語がよりわたしの内面に迫って、物語の世界を深く味わえるような気がする。
言葉がわたしの体温と同化して微熱を帯びるまで、じっと待つ。最初は、早く物語を聴き終えることだけにこだわっていた。けれど、読書に早い遅いは関係ない。それよりも、どれだけ言葉の向こう側に広がる物語の世界と親密に交われるかが、読書の醍醐味なのだ。
わたしは、一歩進んでは立ち止まり、空を見上げたり風を感じたりしながら、言葉の吐息を実感した。その吐息をそっと自分の体に吸い込んで、物語を味わい尽くす。わたしにとって読書とは、食べることにも似た、物語に宿る命そのものを自分に取り込む行為だった。
物語に聞き入ることで、わたしは自分の過去を忘れることができたし、自分の知らない新たな世界を知ることもできた。もっと読みたい、もっと聞きたい、物語の続きを早く知りたいという欲望が、わたしの生きる意欲を高めてくれた。
私にとっても、本はなくてはならないもの。もっと読みたい、もっとワクワクしたいと思って、毎日本に手を伸ばしています。
しかし、かつての私は読みっぱなしでした。しかし、ブログに感想や要約を書き記すことで、深い読書ができるようになりました。アウトプットが、私の丁寧な読書&気づき&脳への定着につながっていると実感しています。
最後に
今回は、小川糸さんの『とわの庭』のあらすじと感想を紹介しました。
少女に大事なことを教えられる1冊です。毎日、恨み・辛みの感情に苛まれて生きている方には、何か感ずるものがあるはずです。是非、本書を手に取り、大切な何かを感じ取ってみてください。
最後に、やさしいタイトル&表紙に騙された!と思った小説を一冊。
『おいしいごはんが食べられますように』というやさしげなタイトルとは裏腹に、むちゃくちゃ胸糞悪くなります(笑)なんとも、芥川賞らしい作品です。
芥川賞は、凄く違和感を感じたり、胸糞悪かったり、嫌悪感を感じたりする作品多し!でもそこがいい!なぜそう思うかは、以下の記事で紹介しています。芥川賞の選考基準を知っていると、本選びの参考にもなりますよ。