- 民俗学から、呪いと日本人の関係性を下がる意欲作。歴史的背景から、現代に息づく「呪い」に迫る
- 呪いは、人間関係のゆがみから生まれる恐怖心の表れ
- 「呪い」は「呪い心」と「呪いのパフォーマンス」とがセット。現代では、「呪いのパフォーマンス」を行わなくなったが、人びとの精神の奥底から「呪いの心」はなくなっていない。呪いは時代の変化と共に形を変え、存在し続けている
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Kindle Unlimited読み放題対象本
『呪いと日本人』ってどんな本?
呪いなんて非科学的。オカルト、迷信ー。そう思いながらも、いざ、不幸が続くと、何かあるんじゃないか…と思ってしまうのが人の心。私も、不幸・不運が続いた年、「厄年」であると気づき、慌てて神社に厄除け(護摩焚き)してもらった経験がある小心者です。
さて、今まで全く興味がなかった「呪い」の本を読んでみようと思ったきっかけは、大河ドラマ『光る君へ』。
平安時代が舞台のドラマ・映画・マンガなど、頻繁に呪詛・悪霊退散など「呪い」のシーンに遭遇します。しかも、この時代は、一個人に対する呪いにとどまらず、「呪い」が政治をも動かしているではないですか!
平安時代に限らず、昨今は『呪術廻戦』『鬼滅の刃』など、呪い・鬼がテーマのアニメが大人気。日本人は呪い・鬼の話に惹きつけられることに気づきます。
さて、本題。小松和彦さんの『呪いと日本人』は、日本の伝統的な呪術文化から、日本人の精神性に迫る意欲作。日本各地に伝わる呪い・伝承を分析し、日本人の精神の闇を暴きます。
おもしろくて刺激的!今まで意識したことがなかった気づきに、知的好奇心が大いに揺さぶらました。「現代人の心に巣くう心の闇の正体」を知る上でも役立つ1冊です。
本書では、日本各地に伝わる呪いの伝承や事例が丹念に紹介されます。しかし、調査結果は割愛。私が興味を持った「呪いと日本人の心」に限定して、本書のオモシロポイントを紹介します。
- 日本の民族性について知りたい方
- 「現代人の心に巣くう心の闇」の正体を、これまでになかった角度から知りたい方
- 「呪い」「恨み」「呪詛」「異界」「結界」などの言葉に、びびっと興味がそそられる方
『呪い』とは
「呪いの心」と「呪いのパフォーマンス」
呪いとは、精神・霊など目視できない手段によって、社会や個人に災いや不幸・不運をもたらそうとする悪意ある行為のことです。
呪いの術「呪術」の中でも、特定の人間を呪おうとする場合は「呪詛(じゅそ)」。これに対し、平安時代で活躍した陰陽師が、対象を悪だと判断して滅するためにかける呪いは「調伏(ちょうぶく)」と呼ばれます。
「呪い」は「呪い心」と「呪いのパフォーマンス」とがセットになっています。呪いのパフォーマンスの代表例が「藁人形」。現代人は、このような「呪いのパフォーマンス」を非科学的でバカバカしいと感じます。たとえ呪われたほうに「禍」が生じたとしても、両者のあいだに科学的な因果関係を立証できないからです。
しかし、ここで大事なのは、「呪いのパフォーマンス」は行わずとも、人びとの精神の奥底からすっかり「呪いの心」がなくなったわけではないという点です。あなたも腹が立った時、「アイツ、ぶっ殺してやる!」と超ライトな呪詛をしますよね?
呪いは、人間関係のゆがみから生まれる恐怖心の表れ
呪いは非科学的と思う一方、「もしかしたら」という気持ちもまた否定できないのが人の心です。人間の心は「合理的」でも「科学的」でもないからです。
さらに、日本に関しては、以下のような特徴があると小松さんは指摘します。
日本人の呪いの観念の根底には、人知を超えた神秘的な力の存在への畏怖と、人間に対する根深い不信感が横たわっている。
呪いとは、人が無意識のうちにいだく邪悪な感情の表現であり、呪術とは、人間存在の深層にひそむ恐怖心の表れにほかならない。
日本人は、古代より、様々なものに「霊」が宿るとして、「八百万の神」を崇めてきました。
一方、呪いは人間関係のゆがみから生まれる恐怖心の表れです。戦前ぐらいまで、人々は共同体なしでは生きられませんでした。村八分になると、待っているのは「死」。死から逃れるために共同体に留まる結果として生じるのが、閉鎖的な共同体では必至の「人間関係のわだかまり・憤り」です。これらは、法や道理で解決できる問題ではありません。
呪いは、法では解決できない、人間関係のわだかまり・憤りを何とかしてくれる矛先として、機能してきたのです。
時代変化と共に変わる「呪い」
『古事記』に見るケガレ思想
呪いが日本史に初めて登場するのはするのは、『古事記』。日本を生んだ神「イザナミ/イザナギ」の争いです。
もともとは夫婦。しかし、イザナミが火の神を産んだがために死に、黄泉の国に行ってしまう。イザナキはイザナミを連れ戻そうと赴くも、イザナミは既に穢れた世界の食べ物を食べた穢れた存在。「私を見ないで!」というイザナミの約束を破って、変わり果てたイザナミの姿を見てしまったイザナギは、その醜い姿に驚き、一目散で逃げ出す。恥をかかされたイザナミは怒って「この世の人間を一日で千人殺してやる!」と言い放つ。そして、その言葉に迎え撃って、イザナギは、「それなら私は、一日に千五百人生もう」と言い放って逃げるのです。
これが日本最古の記録としてのと「呪い」。『古事記』はおもしろおかしいトンデモ本。相当に笑かしてくれます。
黄泉の国から戻ったイザナギは、穢れを落とす「禊ぎ」を行います。そして生まれたのが、「アマテラス」、「ツクヨミ」、「スサノオ」の三貴神。そして、アマテラスの子孫が「天皇家」なのです。
つまり、『古事記』に記される「死は穢れ」とする宗教観は、天皇家の宗教観につながるのです。
呪いは、国家をも動かす
奈良時代以降になると、呪いは、国家をも動かす存在となっていきます。呪術が権力を巡る政治の道具として利用され、時の権力者によって、解釈のレトリックを変えながら利用されるようになるのです。
都合の悪い政敵は、呪い殺して排除するー。奈良・平安の都では、政敵を陥れるために『呪詛』が行われました。また、為政者たちが、陰陽師たちの偽りの占いを利用して、政治を動かそうとする事件も相次ぎます。
呪いは、社会変化と共に形を変える
律令制度の浸透とともに呪術が衰退し、近代化とともに呪いへの関心が薄れていったかのように見える。しかし、日本人の心の奥底に、呪いを生み出す心性は生き続けているのではないか。
人には多かれ少なかれ、誰かを恨んだり、 妬んだり、はたまた呪いたくなる心性「呪い心」「怨念」があります。
理不尽・不安・恐怖など、法では解決できない人間関係のもつれ・社会への不満が、呪いを生み出す温床です。理不尽・不安は社会の変化と共に変化します。結果、呪いの歴史をたどることが、日本人の心・精神性の変化を下がることにもつながるのです。
現代社会に見る「呪い」
呪いも、社会変化ともに、その役割を変えています。
不安定な時代。明るい未来を描けない時代。勝ち組・負け組。親ガチャハズレ 等、現在は、どこにぶつけたらいいかわからない「怒り」「憎しみ」が至る所に渦巻いています。
そんな怒り・恨みの矛先が、SNSなどで爆発しています。SNSで見られる執拗な誹謗中傷などは、その一例でしょう。憎い相手に不幸を与えようとする様は、まるで『呪詛』のようです。
現代人も少なからず「呪い」にとらわれているのです。だからこそ、アニメ作品には「結界」登場多数、鬼退治アニメ「鬼滅の刃」が大ヒット。「呪術廻戦」に至っては、人間の負の感情から生まれる化け物・呪霊を呪術を使って祓う呪術師の闘いを描いており、まさに、やっていることは平安時代の陰陽師と同じです。
現代に続く「呪い」スポット:貴船神社
京都の有名な観光スポット&パワースポットの『貴船神社』。縁結びの神社でもありまうが、平安時代のむかしから呪いを引き受けてくれることでよく知られた神社で、呪いの藁人形を五寸釘で打ち抜く「丑の刻参り」発祥の地でもあります。
現代でも、日本中から怨みを抱えた人が貴船神社を目指してやってきます。神社の境内には、薄っぺらな板で囲われた木があり、板の中を見ると… 「怨念渦巻く」おぞましい光景を見ることになるのだとか..😱
呪いは非科学的でも、今でも、多くの人が「呪い」をある種の心の支えとなって機能しているのです。
なお、縁結びの神様として有名な理由は、平安時代の女流歌人・和泉式部が参拝し、心変わりをした夫との復縁を祈願して、成就したことがきっかけ。和泉式部は、以下の貴船神社で以下の歌を詠んでいます。
もの思へば沢の蛍もわが身より あくがれいづる魂かとぞみる
物思いをしていると、沢を飛び交っている蛍の火も、自分の身から離れ、さまよい出た魂ではないかと見えたことだ。
最後に
今回は、小松 和彦さんの『呪いと日本人』からの学び・気づきを紹介しました。
呪いの民俗学を通して、私たちの心の奥底に、今なお存在する「呪いを生み出す心性」が存在していることを思い知らされました。
本記事では記載しませんでしたが、本書には、現代をも残る伝承・古文書などの丹念な調査報告、そして、分析結果に誌面を割いてまとめられています。是非、その結果も、本書を手に取り味わってみてほしいと思います。