- 藤原道長が権勢を誇る平安時代、才能を見出された若き仏師・定朝が人の心救う仏像を造ろうと苦悩した姿を描く歴史小説。第32回新田次郎文学賞受賞作
- 現存する定朝作品は、平等院鳳凰堂の本尊 国宝《木造阿弥陀如来坐像》。「定朝様」と呼ばれる仏像スタイルがいかにしてつくられたかを、著者・澤田瞳子さんが、巧みな想像で描き切る
- 藤原道長・彰子・敦明親王ほか、歴史上の人物が多数登場。「末法の時代」目前で荒廃する平安の世で、人を救う仏像を彫らんとする定朝の姿に深い感動
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Kindle Unlimited読み放題対象本
『満つる月の如し 仏師・定朝』ってどんな本?
時は藤原道長が権勢を誇る平安時代。
若き仏師・定朝はその才能を早くも発揮していた。
道長をはじめとする顕官はもちろん、一般庶民も定朝の仏像を心の拠り所とすがった。
が、定朝は煩悶していた。貧困、疫病が渦巻く現実を前に、仏像づくりにどんな意味があるのか、と。
華やかでありながら権謀術数が渦巻く平安貴族の世界と、
渦中に巻き込まれた定朝の清々しいまでの生涯を鮮やかに描く。
第32回新田次郎文学賞受賞作
澤田瞳子さんの歴史小説『満つる月の如し 仏師・定朝』は、大河ドラマ『光る君へ』のファンにおすすめしたい小説。
主人公は、定朝(じょうちょう)。 藤原道長晩年期に活躍した伝説的な仏師で、代表作が『平等院鳳凰堂』の本尊 国宝《木造阿弥陀如来坐像》 。残念ながら、寺焼失などで、現存する作品は、これ1体のみです。
平等院鳳凰堂は、10円玉の裏に描かれた国宝建造物。そして、京都府宇治にある寺院で、藤原道長の子・藤原頼通よって建造。1052年道長の別荘を寺院に改修されました。
1052年は、お釈迦様入滅から2000年を経て、世が乱れる「末法の時代」が始まると言われた年。権力者たちが私利私欲の権力闘争に明け暮れる中、世は貧困・疫病え荒廃。さらに、末法の世が始まるということで、貴族も平民も不安・苦しみを抱え、都では貧しい庶民の間にも、極楽往生を願う浄土の教えが広まりつつありました。
なぜ、苦しむ民をほおっておくのか?そんな世に仏などいるのかー
仏がいないなら、仏像づくりにどんな意味があるのかー
もしいるなら、民を救う仏像のお姿はどうあるべきなのかー
本作は、荒れる世の中で、比叡山の僧・隆範に才能を見出された定朝が、「人を救う仏とはどのようなお姿なのか」と悶絶しながらも仏を彫り上げるまでをドラマチックに描いた物語。権謀術数が渦巻く貴族世界、貧困に苦しむ民を、道長の策略によりに皇太子の座を奪われ狼藉を続ける敦明親王(あつあきらしんのう、三条天皇の第一皇子)、そんな親王の身を案じる母后・彰子と中務宥子、彰子に仕える藤原道雅(ふじわらみちまさ、藤原伊周の長男)らの物語と共に描きます。
本物語はフィクションですが、世の荒れぶり、特に貴族の乱れぶりがよく伝わってきます。だからこそ、より、人の心を救う仏像を彫ろうと苦心する定朝の姿に心打たれます。
私はこの小説を読んだ後、平等院鳳凰堂を訪れましたが、定朝が阿弥陀仏にこめた想いに、心が熱くなり、仏を前に手を合わせ、深く祈らずにはいられませんでした。
旅行好きの方なら、観光地で仏像を見る目が変わる1冊。平安時代後期の時代を知りたい歴史好きの方にもおすすめです。
- 歴史小説が好きな方
- 平等院鳳凰堂を訪れたい方・訪れたことがある方
- 仏像・仏閣が好きな方
『満つる月の如し 仏師・定朝』:あらすじ
時は平安時代・藤原道長の晩年期。道長の発願で工事が進む法成寺(ほうじょうじ)から話が始まります。
才能を見出される
法成寺は、平安時代中期に藤原道長によって創建された、摂関期最大級の寺院。道長の自邸・土御門邸の東隣(現在の京都御所近く。彰子が子を産んだ場所)し、道長の異称「御堂殿」「御堂関白」の由来ともなった寺です。このころ、道長は病に苦しむようになり、浄土信仰に傾倒していました。
この法成寺に大量の阿弥陀仏が運搬された日。大きく傷がついた阿弥陀像を削り直し、見たこともない幽麗なお顔に仕上げた若い仏師が定朝。居合わせた比叡山のエリート学僧であった隆範に、定朝はその才能を見出されます。
隆範は、荒廃した世に真の御仏の姿を示すためには定朝の才能が必要と考え、定朝を貴族からの依頼を受けられるような仏師に育てようと教育を施します。そして、定朝は、法成寺金堂・五大堂の造仏の功績により、仏師として史上初めて法橋の称を受けます。
荒れ果てた世。末法が目前に迫る平安末期
当時、世の中は「末法の時代」を目前に、非常に世が乱れていました。
貴族 | 民を救う政治より権力。権力者にすり寄り、色恋沙汰にうつつを抜かす。夜には宮中で男女の声が… ※平安時代・摂関政治~院政の政治のクソっぷりについては、こちらの記事を参照 |
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平民 | 病が流行。困窮で死亡者も多い |
都 | 荒廃が激しい。盗賊が跋扈。病人溢れ、主要道路にも死体が転がる。野犬に食い殺される人も。 |
こんな世にあって、定朝は仏像を彫れば彫るほど、一体、この世に御仏がおわすやと苦悩せずにはいられない。また、利益のためなら倫理的には正しいとは言えない術策を平気で行う貴族のために仏を彫ることにも疑問を抱きます。
仏師の役目とは
仏が実在しないのであれば仏像を造ることに何の意味があるのかと悩む定朝。また、自分が造り上げる仏と、心に描く理想の仏の姿とは何かしら違うと悩みます。
しかし、定朝の仏像に接した者は、貴族も平民も、そこに今まで拝んだことがない御仏の姿を見出し、心救われています。この事実を定朝に説明できない隆範。彼にに代わり、親も家もないく苦しみの中で育った比叡山の色稚児・甘楽丸は次のように言うのです。
御仏が本当におるかおらぬのか、そんなことは実のところ、大した話ではないのよ。肝心なのは、それを信じたい者がおり、それにすがるため、寺を建てたり念仏を唱えたりする人々がおる。そうせざるをえない弱い人心を如何に救い、慰めるかが、仏師や僧侶の努めじゃわい。
甘楽丸から発せられた言葉に定朝は感銘。心を一新し仏師の道を歩み出すのです。そして、心に描く理想の仏の姿をさら強く求めていくのです。
すべての生き物が平等に仏性を持つ
この世に生きる者たちはみな、日々の暮らしに目を曇らせ、心を尖らせている。しかしそんな者たちの中にも間違いなく、御仏は隠れている。その事実を、見る者すべてに伝えねばなるまい。
上記は物語終盤の定朝の言葉です。
一切衆生 悉有仏性(いっさいしゅじょうしつうぶっしょう)とは、すべての生き物が平等に仏性を持っているという教えです。これを伝えたくて、定朝は寝食を忘れて、阿弥陀如来像を彫り続けます。
現代人も愛欲や三毒(貪・瞋・癡)に心を奪われ生きています。本書を読みながら、自分の欲を見つめ、改める時間が必要だと感じた次第です。
登場する歴史上の人物・時代背景
本歴史小説には、歴史上の有名人が多数登場。その人間模様がフィクションでありながらも、とてもリアリティあるストーリーで描かれます。歴史を知らずとも小説として面白く読めますが、歴史を知っていた方がより楽しく読めることは間違いありません。以下、より面白く読むための史実を確認します。
登場人物と平安時代
上図は「藤原家・天皇家家系図」。この図の中で、本物語の舞台となるのが、ざっくり、オレンジ色の枠。本書の背景として大事なのが、藤原道長絶頂期の摂関政治と歴代の帝の推移です。
道長・頼道をのぞき、以下の歴史上の人物が、ストーリーを構成する大きな要素となっています。
敦明親王 | 三条帝の第一皇子。藤原道長に皇太子の位を剥奪。恨みから世を騒がす悪行を繰り返す |
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中務宥子 | 敦明親王の幼なじみ。親王を慕い、行いを改めようと命を落とす 無残な死を遂げながら、敦明親王を想い亡くなった中務の顏に定朝は「慈悲の面:仏」を見出す |
小式部内侍 | 和泉式部の子。母同様、あちこちの殿御と浮名を流す女御。敦明親王とも… 百人一首「大江山 生野の道の 遠ければ まだふみもみず 天の橋立」で有名 |
藤原彰子 | 国母。一条天皇の元后。道長とは方針合わず対立 敦明親王の悪行を止めようと…. |
権力者は権力闘争と色恋に明け暮れ、世は荒廃
上記登場人物からもわかる通り、本物語の一つの柱となるのが、藤原摂関政治の権力闘争の闇です。
『光る君へ』での藤原伊周(これちか)然り、権力闘争で敗れた者の怨み・辛みが非常に激しい。勝者も呪詛されないかと心身をすり減らす… 時の権力者が権力闘争に明け暮れ、自分のことばかり心配するような世の中で、民が安心・安全に暮らせるはずなどありません。
また、母・和泉式部が夫がありながら、冷泉帝の2人の皇子・為尊親王・敦道親王と関係を持っていたことを、当の本人が『和泉式部日記』赤裸々に語っていますが、子・小式部内侍も多くの男性と浮名を流したとは… 血筋であり、また、王宮が乱れていたであろうことは容易に想像がつきます。
定朝がたどり着いた「民を救う寄り添う仏」
定朝は、可能な限り平明な仏像の製作を企図した。それは古代以来連綿と続いてきた重量感に満ちた調和を放棄すると同時に、自らが得意とした生々しい仏像からの脱却を狙ったものでもあった。尊容を軽やかにすれば、当然、見る者に迫る生命感は希薄となる。定朝はあえてそれに挑むことで、万人に許容される如来像を生み出そうとしたのである。
乱れる世で、人を救わんとする仏像を造ろうとする定朝は、中務宥子の死に顔に「慈悲の面:仏」を見出します。そして、人に寄り添うような、それまでの仏像とは一線を画する独自の仏像スタイル「定朝様(じょうちょうよう)」にたどり着きました。
定朝以前 | 重厚な質感があり威厳に満ちる。胸板厚く、存在感、力強さがみなぎる 別目線で見れば、上から民を見る高圧さ |
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定朝様 | 柔和さ・優美さに特徴。表情は温和、胸板が薄い。どこにも力が入っていない容姿 民に寄り添うような慈悲深さ、温和さがある |
定朝以前の例で典型的仏像は、東大寺大仏殿の仏像です。胸板が熱い。また、東大寺仁王像は筋骨隆々で高圧的。奈良観光をしていろいろな寺を回りましたが、はやり、仏像はがっしりしたお姿で威厳がある分、上から目線な仏像が多かったです。しかし、定朝が作った阿弥陀如来坐像には、上からな目線は感じは受けません。その場にともにいるような感じ。人を包み込むような仏像でした。
さらに、そして、阿弥陀如来坐像の周囲には、52体の運中供養菩薩像が配され、平等院鳳凰堂と池。そこはまさに、極楽浄土の世界です。
タイトルの「満つる月の如し」とは、藤原道長の「望月の歌」をもじったものではなく、定朝の造った仏像を賞賛して言われた言葉だそう。吸い込まれそうなほど深い慈しみを湛えた眼差し、微風に翻るかと見まごう軽やかな衲衣をまとう御仏に「まるで、満つる月が如き尊容でございますな」と人はたたえたそうです。
夜には月明りしかない平安時代。闇をやさしい光で照らす「月」はとても大切な存在であったはずです。そんな満月ののような仏像に、多くの人は心救われたに違いありません。
そうだ、秋の京都に行こう
京都宇治
そうだ、京都行こう 2024年。PVでは、大河ドラマで藤原道長を演ずる柄本佑さんが、宇治への旅を誘います。
宇治は紫式部が記した『源氏物語』宇治十帖の舞台。『源氏物語』五十四帖のうち、最後の十帖は宇治を舞台としていることから「宇治十帖」と呼ばれています。川べりには紫式部や源氏物語の像も!宇治で押さえるべき観光スポットは3つ+川辺散策です。
世界遺産「平等院鳳凰堂」
一番の目玉の観光スポットは、10円玉の裏に描かれる世界遺産「平等院鳳凰堂」!
もともとは藤原道長が所有していた別荘。それを、1052年に子・藤原頼通が寺院に改めました。現存している鳳凰堂は創建の翌年に阿弥陀堂として建てられたものです。
私は2024年10月、「光る君へ」にはまってしまって、京都・奈良・和歌山他を旅してきました。宇治かの観光スポットは歩いて回ることができます。どこも観光客(特に外国人)でにぎわっていました。
はじめて見る「平等院鳳凰堂」は美しい!定朝作の平等院鳳凰堂の本尊 国宝《木造阿弥陀如来坐像》を見るためには、追加料金がかかりますが、折角、足を運ぶなら、見るしかない!私は、定朝の本を読んだ後に訪れたので、特別な感動がありました。
世界遺産・宇治上神社
宇治上神社は、平等院から宇治川を挟んだ対岸にある神社です。平等院とほぼ同時期に建てられたと考えられてており、現存する最も古い神社建築とされています。
源氏物語ミュージアム
源氏物語ミュージアムは、源氏物語の世界を知ることができるミュージアムです。映像・模型などで、わかりやすく源氏物語の世界を楽しめます。
宇治の川辺
『光る君へ』第42話は「川辺の誓い」。三条天皇(木村達成)との覇権争いを繰り広げる中、藤原道長(柄本佑)の体調に異変が起き、道長は病に倒れます。宇治で療養する道長を見舞いにまひろ。2人が川辺で思いを語るシーンが描かれました。
宇治橋は、日本三古橋のひとつに数えられる橋。現在も、宇治橋が持つ歴史的イメージを残し、周辺の景観にも調和したデザインになっています。橋のたもと(平等院鳳凰堂側)紫式部の像もあり、賑わっていました。
私も川辺を歩きましたが、この川は千年前も存在していたのだなぁ…としみじみしました。
京都市内:光る君へ関連スポット
合わせて、京都市内の「光る君へ関連スポット」は以下の通り。どこも、大河ドラマの影響があって、多くの人でにぎわっていました。中には、大河ドラマ出演者が訪れたことを示す写真が掲載されている観光スポットもありました。
ざっくりと、京都の観光スポットの中でも、朱色の建物が美しい場所が「平安時代関連」と思うと分かりやすいでしょうか。平等院鳳凰堂をはじめ、上賀茂神社、下鴨神社、比叡山延暦寺(根本中堂など)、平安神宮などは朱色で建造物が美しいです。
世界遺産:上賀茂神社・下鴨神社
世界遺産・上賀茂神社は、京都でもっとも古い神社です。正式には、賀茂別雷神社(かもわけいかづちじんじゃ)といいます。朱色が美しい神社で、平安時代の小説などを読んでいても時折登場します。境内には、まひろ役・吉高由里子さんと、道長役・柄本佑さんが訪れたことを示す写真が掲載されていました。
世界遺産・下鴨神社は、賀茂川と高野川が合流する鴨川デルタのすぐそばに鎮座する神社です(上賀茂神社より南側)。京都開拓の神賀茂建角身命とその御子神玉依媛命をお祀りする古社で、正式名称は「賀茂御祖神社(かもみおやじんじゃ)」です。こちらも朱色が美しい神社でした。
平安神宮
平安神宮も京都の人気観光スポットです。1895年、平安遷都1100年を期に市民の総社として創建。平安京の正庁を模した朱塗りの社殿が美しく平安京の雅な雰囲気が漂っています。拝観料が必要ですが、お庭も素敵です!
世界遺産・比叡山延暦寺
比叡山延暦寺は、天台宗改組・最澄が創建した日本仏教の母山。 京都御所の北東に位置し、古くから鬼門の方角にあります。法然(浄土宗)、親鸞(浄土真宗)、栄西(臨済宗)、道元(曹洞宗)、そして日蓮(日蓮宗)といった各宗の開祖がここで学びました。
比叡山は山全体にお寺です。東塔(とうどう)、西塔(さいとう)、横川(よかわ)という3つのエリアがあり、3つ回ると結構時間がかかります。車での移動でも、坂・階段が多めなので体力が必要です。
私が最も見たかったのが、比叡山延暦寺の国宝・根本中堂内陣にある「不滅の法灯」です。天最澄が本尊の薬師如来を祀った時に灯したといわれる火で、以来1200年以上にわたって途絶えることなく僧侶たちによって守り続けられています。織田信長の延暦寺焼き討ちの際、一度消えましたが、岩手の立石寺から再分灯してもらったことで、最澄が最初に灯した炎は途絶えることなく引き継がれました。
ちなみに、「油断大敵」の語源は、不滅の法灯とされています。お坊さんの間で、油を継ぎ足す当番は決まっていないのだそう。しかし、皆が「油断大敵」のことわざのごとく注意を怠ることなく、油が継ぎ足され、今日に至っています。
現在、根本中堂と回廊は約60年ぶりの大規模改修工事が進められており、すっぽりと工事用素屋根に覆われています。しかし、不滅の法灯、合わせて、普段は見ることのできない改修工事の様子を見学することができます。
『光る君へ』第42話は「川辺の誓い」では、藤原道長が、顕信の受戒(仏の定めた戒律に従うと誓う儀式)に参列しようと、馬に乗ったまま比叡山に入り、僧に石を投げられたことに対し、三条天皇が「祟りじゃないの?」と揶揄するシーンがありました。
藤原摂関政治の後には院政の時代。1086年にはじめて院政を行った白河上皇は、頭を悩ますものとして「賀茂川の水、双六の 賽、山法師」の3つを挙げていますが、「山法師」とは比叡山の僧兵のこと。時の権力者に頭が痛いと言わせるほど、凄い勢力を持っており、だからこそ、織田信長は延暦寺の焼き討ちを行いました。詳細は以下の記事をご参照ください。
観光スポットを書き出すときりがないので、この辺にしておきます。
平安時代の観光スポット巡りに
紫式部・源氏物語関連観光スポットを旅したい方に、倉本一宏さんの本『紫式部と平安の都』はおすすめ。著者は、光る君への時代考証をされた方。大河ドラマを史実に基づきおさらいすることができるとともに、紫式部関連スポットについても紹介されています。予習をして旅行に出かけると、より大きな学び・気づきが得られるかと!
私が回った感コールートは以下の通りです。スマホアプリで自動で取得できる「移動ログ」をつけておくと、旅行あるある「どこいったっけ?」と折角の旅行を忘れてしまうことを防げます。
最後に
今回は、澤田瞳子さんの『満つる月の如し 仏師・定朝』のあらすじと感想、そして、実際に旅してみたことを紹介しました。
ただ、観光地を巡るだけでなく、小説・本などで観光地に触れると、旅行地で感じることも多くなります。是非、京都宇治市 平等院鳳凰堂を訪れる方は、合わせて読んでみてください。